「手話で生きたい (乘富秀人著 2008年発行 現在絶版)」
の絵本から引用したものです。
『1933(昭和8年)には国によって全国のろう学校に「手話法を禁止し、口話法で教育
するように」という命令が下されました。
「手話は幼稚だ」「手話は社会では役に立たない」「口話習得の邪魔になる」
ろう学校はそれまでに使っていた手話法を禁止して、口話法に強制的に切り替えま した。
「聞こえなくても聞こえる子に近づくべきだ」と考えられていたからです。
その頃のろう学校では手話をする生徒の手を縛ったり、鞭で叩いたり、バケツを
持たせ手話を使えなくしようとしました。
口話の訓練でうまく喋れなかったら殴ることもありました。(中略)
口話の訓練に時間をかけすぎたり、教員の言っていることが読み取れなかったり
したために、学習のほうは5年前後遅れるはめになりました。
ろう児たちは厳しい口話教育を受けたに関わらず、日本語を完全に獲得することは
なかったのです。
読話(口もとの動きを読み取ること)に限界があり、発音も通じにくく、読み書きも
不十分なまま、ろう児たちは大人になり、社会に出るとコミュニケーションのすれ 違いが生じ、トラブルを起こすことも、しばしばありました。
1933年、文部省(当時)が手話の必要性を認めたために手話を禁止するろう学校は 少なくなりましたが、手話で教育をしているろう学校はまだまだ少ないままです。
学校にもよりますが「初めに口話習得。その上で手話も認める」という消極的な
態度のままなのです。
ろう文化(音のない世界)を理解し、手話のできる教員(聴者)が、非常に少ないのが
現状なのです。
これがろう学校の歴史なのです。
口話教育に対する怒り・疑問・困惑が心の底から湧き上がってきます。
なぜなら私も口話教育を受けた1人だからです。
(中略)
口話は自分のためのものではなかった。
いったい、誰のものだったのだろう。
聴者のために一生懸命、声を出したところで、
いったい何になるのだろう。
大切な手話が奪われたらいったい何が残る?
何を支えに生きていけばいいのだろう?
数年後、長年付き合っていたろうの女性と結婚することになりました。
そして子どもを授かりました。
息子は私たちと同じ「ろう」でした。
ろうであろうが、なかろうが、ろうの私たち夫婦を選んで生まれてきてくれたこと が何よりもうれしかったのです。
でも気になることがありました。
ろう学校での口話教育に対する不安でした。
手話に理解のないろう学校に預けるのかと思うと、いてもたってもいられない気持 ちでした。
息子を私たちの二の舞にはさせたくない。
あんな辛い思いを絶対に味わわせたくない。
ろう学校が手話で教育することを認めてもらうにはどうしたらいいだろう。
手話とろう文化に対する理解が足りない社会のままにして、
息子が大きくなった時、人生に失望させたくない。
それは私たちが差別を味わったからこそわかることです。
私はろう児の父親として息子にしてあげられることはないだろうかと考えました。
その時にふと思いました。
「今の私にできることは絵を描くことだけ。
それなら、絵を通して「手話」と「ろう文化」に対する理解を広めればいい。
息子のためにも、ろう児たちの未来のためにも描きたい。
それが私の探し求めていた絵だ」
長年、心の中にあって見えなかった絵が息子の誕生によって見えたのです。
「ろう者の芸術」を英語に訳すると「デフアート」
デフアートが「私の心のキャンバス」となったのです。』
私の心に印象に残っていることばがあります。
「海には海の美しさがある。砂漠には砂漠の魅力がある。
海はいくら頑張ったって砂漠にはなれないし、砂漠は海になれない。
でもどちらにも素敵なところはたくさんある。
(「ニューライフ・アドベンチャー第23回全国高校生の主張
ーなんだか私を語りたくなった」毎日新聞社、2001年 )
分断された世界をつなぎ直す。
そのためにも「ろう文化(音のない世界)」と「聴文化(音のある世界)」という異文化の間にデフアートという名の橋を架けたいと思います。
デフアート作品は、いずれも「ありのままで生きていられる未来あるろう児たちのために」という思いがこもった作品です。
数々の作品を通して「耳がきこえなくてもいい。ありのままでいい。手話があるから大丈夫。ろうの誇りを持って生きてほしい」という私なりのメッセージを感じ取ってもらえたら幸いです。